ポルトガル
国旗のデザインの由来と意味
ポルトガルの国旗はベルデ・フブラ(緑赤旗)の愛称で呼ばれています。
この旗はいわば、世界で一番に大航海時代を切り開いた、ポルトガル海上帝国の輝かしい歴史・栄光が詰め込まれた旗です。緑は希望、誠実をあらわすと同時に、大航海時代をおし進めたアビス朝騎士団のシンボルカラーでもあります。赤は、新世界発見に乗り出した国民の勇気、また共和制革命で流された血をあらわします。
中央にあるのは、中世以来ポルトガル王国で使われてきた紋章です。外側の黄色い球体は、大航海時代の航海道具、天球儀。ポルトガルの先人による、優れた航海術を示しています。その上に盾紋が置かれていますね。
7つの黄色い城は、13世紀にアフォンソ3世(第5代ポルトガル王)がカスティーリャ王女と結婚した時の記念で、イスラム教徒と戦った城をあらわします。5つの青い盾は、12世紀にイスラム教徒との戦いに勝ってポルトガルを建国したことを。盾の中の5つの白い円はキリストの受難(キリストが受けた5つの傷・聖痕)をあらわすとされています。
この国旗は、1910年にポルトガルの王政が廃止されて共和制(君主を持たず、国民に主権がある政治体制)が成立したときに制定されました。
ポルトガルの国名について
11世紀に、北部の港湾都市ポルトを中心とした地域を治めていた、ポルトゥカーレ公(アフォンソ1世/初代ポルトガル王)により王国が建国されたことが由来。ポルトゥカーレは、「ポルト(港)」と「カーレ(温暖な)」で、「温暖な港」という意味。
ポルトガルの国旗の歴史
ポルトガルやスペインのあるイベリア半島は、8世紀からイスラム勢力の支配下におかれていました。しかし、8世紀から15世紀の末頃まで、キリスト教徒がイスラム勢力からイベリア半島を取り戻そうというレコンキスタ(国土回復運動)が起こります。その最中の12世紀、イスラム教徒の5つの連合軍を破ったアフォンソ1世がポルトガルを建国しました。
そして15世紀、当時のポルトガル王ジョアン1世(アヴィス王朝の創始者)、またその王子エンリケ航海王子が探検航路の開拓に乗り出し、大航海時代がはじまります。
ポルトガルは探検航海事業で数々の先駆者を送り出し、スペインとともに一大海洋帝国を築き上げ、全世界に広大な植民地を獲得しました。同時に、先住民を奴隷化して鉱山で働かせ、過酷な搾取を行います。1494年に、スペインとの間で結ばれたトルデシリャス条約では、まるでヨーロッパ以外の世界を2国間で分けるような取り決めまで行いました。
しかし、ポルトガルの黄金時代は長くは続きませんでした。アビス朝の後継者がいなかったことや、インド洋の香辛料貿易自体が衰退してしまったこと、また国力の限界を越えた拡張などが原因で、ポルトガルはだんだん衰えていきます。その一方、オランダやイギリスなど、新しく勢力を伸ばした海洋国家が次々と海の覇権を争うようになりました。
さらに、1580年から1640年まではスペインに併合されてしまいます。独立回復後も、19世紀にはナポレオンに侵攻され、その後は植民地の独立が相次ぎました。
そして20世紀に入り、1910年、ポルトガルで10月5日革命(共和革命)が起こります。国王は廃位し、ポルトガル第一共和政が成立しました。このとき、紋章の一部はそのままに、二色旗の配色が緑と赤に変更されたのです。
歴代、ポルトガルの国旗には青と白の二色が使われていましたが、それまでの君主制の時代と決別するために、全く異なる配色になりました。
青と白は、ポルトガルの最初の王家であるブルゴーニュ家の祖、ポルトゥカーレ伯エンリケの、白地に青い十字をあしらった紋章にちなんだ配色でした。歴史と由緒ある配色でしたが、これが緑と赤にガラっと変わったのです。
共和制革命のリトグラフ
この絵は、ポルトガル共和国の宣言につながった、1910年10月3日夜の革命的な出来事を描いたカラーリトグラフです。自由の象徴フリジア帽をかぶった女性が、新しいポルトガルの旗を掲げています。フランスの擬人化マリアンヌのオマージュのようですが、ポルトガルを擬人化したイメージというよりは共和制の象徴とされ、今ではあまり使われていないそうです。
大航海時代の立役者、エンリケ航海王子
ポルトガルは、面積にして日本の約4分の1という小国…。にもかかわらず、先駆けて大航海時代を切り開き、一大海洋帝国を築いたなんてロマンのある話ですね。そこには、エンリケ航海王子の情熱がありました。国旗とはあまり関係ありませんが、ポルトガルの歴史上、超重要な人物なのでここで少し紹介します。
エンリケ航海王子は、アビス王朝を創設しポルトガル全盛期の基礎を築いた「大王」ジョアン1世の子供です。彼はアフリカ西岸に探検隊を派遣し、アフリカを南から回り込む航路を(途中まで)開拓しました。(この後、バルトメロウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰に到達。ヴァスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達。これに対し、「アフリカを回るのではなく、西に大西洋を行けばインドに到達できる」とスペイン女王に提案しアメリカ大陸を“発見”したのがコロンブスです。)
当時、東方貿易と呼ばれるイタリア商人とムスリム商人たちの貿易によって、地中海世界の商業は繁栄を続けていました。しかし、イスラム強国のオスマン帝国が力を伸ばしていくと、それまでのような自由な貿易が難しくなったのです。
その一方、13世紀にヨーロッパへ侵入を繰り返したモンゴルの騎馬隊の存在や、マルコ・ポーロによる『東方見聞録』の影響で、ヨーロッパの人々のアジアへの関心は高まるばかり。また広大なアジアには、香辛料と、そして大量の金が眠っていると信じられていたので、ヨーロッパの商人たちはアジアへの直接ルートを切望していました。
アフリカを南から回り込むインド航路を開拓したエンリケ航海王子ですが、これは簡単なことではありませんでした。当時はまだ、地球は丸いと考えられていませんでしたし、船乗りたちの間では「南にはこの世の果てがあり、海は煮えたぎっている」と信じられていたからです。特にアフリカ西岸にあるボジャドール岬は、「越えれば生きて帰って来るものはいない」と語り継がれ、異常なまでに恐れられていました。
エンリケ航海王子は、20歳の時、父親のジョアン1世と共にセウタ(イスラム勢力が支配していたモロッコの地域)の攻略に参加した経験があり、アフリカの地理情報や地理学、天文学を自ら学んでいました。そのため、「ボジャドール岬の伝説は単なる迷信だ」と確信を持っていました。船乗りたちに対して、「何の根拠もない伝説を信じるな」と言うのですが、エンリケ航海王子の船乗り募集には誰も応じず、なんと12年も待ったそうです。
結局、エンリケ航海王子は部下のジル・エアネスに「絶対に超えてこい」と命令し、西アフリカ航路に向かわせます。そしてエアネスは無事任務を達成。ボジャドール岬の南を突破するのでした。
エアネスの航海はボジャドール岬を通過しただけで、実際の成果としてはほぼ何もありませんでしたが、「南は決して特別な場所ではなく、普通の海が広がってた」という事実自体が大発見だったのです。この航海は当時の船乗りたちの恐怖や常識を覆す、大きな偉業となりました。
その後、エンリケ航海王子は、ポルトガルの南端にあるサグレスに「王子の村」を作ります。いわば、航海のための学研都市。「王子の村」には、造船所や天体観測所、航海術や海図製作のための学校が作られました。
そして彼は、新たに見つけたアフリカの土地で貿易や開拓を行い、また黒人奴隷貿易もはじめました。エンリケ航海王子は信仰心の厚いキリスト教徒だったため、「黒人たちを間違った信仰から解放するのだから、これで彼らも天国にいけるはずだ。」と本気で考えていたのだとか。また彼は、当時ヨーロッパでまことしやかに信じられていた“謎の国”「プレスター・ジョンの王国」を探していたという話もあります。
プレスター・ジョンの王国とは?
アジアあるいはアフリカに存在すると考えられていた、伝説上のキリスト教国の国王。ヨーロッパの人々は、プレスター・ジョンが統べる民は敬虔なキリスト教徒で、イスラム教徒から一緒にエルサレムを奪い返してくれる。と信じていた。
1460年、エンリケ航海王子は「王子の村」で66年の生涯を閉じました。
船酔いがひどかったため、航海には出なかった「航海王子」でしたが、ヨーロッパの小国ポルトガルに大航海時代という黄金時代をもたらした立役者。興味深いエピソードがたくさんある人物です。
ポルトガルの国データ
正式名称 | ポルトガル共和国 |
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英語表記 | Portuguese Republic |
漢字表記 | 葡萄牙(略記:葡) |
首都 | リスボン |
略号 | PRT |
面積 | 9万1985㎢(日本の約4分の1) |
人口 | 1027万人 |
通貨 | ユーロ |
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言語 | ポルトガル語 |
民族 | ポルトガル人 |
宗教 | キリスト教(カトリック)など |
独立年 | 1640年にスペインから独立 |
国旗の比率 | 2:3 |
在留邦人数 | 728人 |