イラン
国旗のデザインの意味と由来
1935年まで、イランの国名はペルシャでした。その名の通り、古代ペルシャに由来する中東の一大勢力としての伝統を誇る国。緑・白・赤の3色は、遅くとも18世紀頃には旗に使われていたといいます。
1979年、ルーホッラー・ホメイニを指導者としてイラン革命がおこると、パフラヴィー朝イランのシャー(王/皇帝)パフラヴィー2世は国外に亡命してパフラヴィー朝は崩壊、イラン・イスラム共和国が成立しました。
現在の国旗は、このイラン革命によってもたらされた変化を反映して、1980年7月に採択されたデザイン。緑はイスラム教、白は平和、赤は愛国心をあらわします。
白の上下にはそれぞれ11回ずつの計22回、アラビア語の飾り文字で「アッラーフ・アクバル(神は偉大なり)」と書かれていて、この数字は何かというと、イラン革命を導いたホメイニ師が亡命先のパリから、この年のイスラム暦バーマン月22日に帰国したことに由来しています。
中央に置かれた国章にも注目してみましょう。
イランの国章は、全体で「アッラーフ」のペルシャ語表記「الله」を意匠化したシンボル。4つの三日月と真ん中のサーベル(剣)の5部構成で、イスラムの五行(信仰告白・礼拝・断食・喜捨・巡礼)をあらわしています。同時に、サーベルは力と勇気を、4つの三日月は、月の4段階の進化の象徴とされています。
もうひとつ、この国章の大きな特徴は、全体の形がチューリップに似せられているところです。
古代ペルシャには、祖国のために兵士が戦死した場所には、赤いチューリップが咲くという伝説があり、現在でもチューリップは、勇敢さの象徴と考えられているのです。
ちなみに、イラン革命が起こる前の国旗には、国章として太陽を背に剣を持った獅子(ライオン)が描かれていました。この獅子は「王の中の王」を意味するシャハンジャと呼ばれるシンボルで、その原型はササン朝ペルシアの時代にまで遡るといいます。またイランでは、この獅子像をモチーフにした「赤獅子太陽」が、この国の赤十字の組織に相当する団体の名の由来となりました。
このように、イランでは伝統的に太陽と剣を持った獅子を組み合わせた紋章を使っていましたが、イラン革命後、新しい政府は、このシンボルを「抑圧的な西洋化の君主制」をあらわすものと見なしました。そのため国旗の国章は現在のシンボルに変更され、赤獅子と太陽協会の名前も赤新月社に変更されました。
イランの国名について
サンスクリット語の「アーリア(高貴な人)」に由来する国名。「イラン」=「アーリア人の国」のこと。1935年、国名をペルシアから変更した。
一般的に「中東」というときには、東アジアに位置するイランやアフガニスタンも含まれるが、「アラブ諸国」と呼ばれるのは隣国のイラクまで。イランはアラブではなくペルシャ系となる。イラン人は自国の歴史に高いプライドを持っていて、さらにイスラム教でも少数派のシーア派の国。人種も宗派も違うことから、イランは中東地域で少し浮いた存在となっている。
イラン革命とホメイニ師とアメリカ
イランではなぜ革命が起こったのでしょう。
第二次世界大戦後の東西冷戦時代、中東の石油は外国の石油資本(アメリカやイギリスなど)が支配していました。当時のイランのモサデク政権は、1951年に石油国有化政策を断行。国民は熱狂的にモサデクを支持しました。また、モサデク政権は親ソ連の政策を推進しました。
これに対し、アメリカのCIAとイギリスの諜報機関が反モサデクの連中にクーデターを起こさせ、アメリカの石油事業にとって都合のいい皇帝パフラヴィー2世に王朝をつくらせます。モサデクは失脚させられ、石油国有化は失敗に終わりました。
アメリカ寄りの皇帝のもと、イランはアメリカの支援を受け、急激に発展し西欧化が進みました。また、女性解放をかかげてヒジャブの着用を禁止するなどイランの世俗化を進めます。しかし経済が発展する一方、貧富の差は広がり、国民の間には不満が募っていきました。さらに、パフラヴィー2世は独裁体制を敷き、テレビ、新聞などのメディアを厳重に統制し、言論の自由もありません。秘密警察を動かし、政府に批判的な人物は処罰されていました。
こうしたやり方を批判したのが、ルーホッラー・ホメイニ師です。ホメイニ師は、皇帝の独裁を非難して抵抗運動を呼びかけたため、反皇帝運動が激化しました。ホメイニ師は国外追放を受け、フランスに亡命。そしてフランスにいながら、イラン国内の反政府勢力を動かしました。
その結果、1979年、ついにイランで皇帝を追い出す革命が勃発。これがイラン・イスラム革命(イラン革命)です。
革命が成功し、凱旋したホメイニ師がイランの最高指導者になり、イスラム教シーア派の法学者による統治をはじめました。イスラム原理主義の政治です。また、中央条約機構(中東条約機構METOの後進)から離脱するなど反米政策を進めます。
革命後には、イランから逃れたパフラヴィー2世の受け入れをアメリカが認めたことで、ホメイニ支持の学生たちがテヘランのアメリカ大使館を襲撃。1年以上も大使館員とその家族52人を人質にとる事件が発生しました(アメリカ大使館人質事件)。
そしてホメイニ師は、革命時には一緒に皇帝を追い落とした様々な勢力を、革命が成功した途端に次々と殺害していきました。それを見ていた周囲の国々は恐怖におののきます。
特に、イスラム教の宗派でスンニ派が優位の近隣国は、シーア派系住民による革命が広がることを懸念しました。「イランは革命を他の国に輸出するのではないか」そんな不安を抱えた隣国イラクのサダム・フセイン政権は、アメリカの支援のもと、革命の混乱に乗じてイランに侵攻。このイラン・イラク戦争は8年におよぶ泥沼の戦いになりました。
ホメイニ師は1989年に死去しましたが、イラン革命から40年余りがたった今も、イランとアメリカの緊張の糸は張り詰めています。
参考記事:それは1979年から始まった。アメリカとイラン、敵対の歴史を紐解く | Business Insider Japan
イスラム教のスンナ派・シーア派とは?原理主義とは?
現在、イスラム教はスンニ派とシーア派に大きく二分されています。2つに分裂したのは、預言者ムハンマドが死去した後のこと。ムハンマド亡き後、後継者をどうするかという問題が出てきました。
イスラムの指導者のことを「カリフ」といいます。最初は長老や、信者たちに信頼が厚い人物がカリフになりました。そして4代目に選ばれたのが、ムハンマドの従兄弟でムハンマドの娘と結婚していたアリーでした。しかし彼は暗殺されてしまいます。アリーの支持者たちの中には、「アリーこそがムハンマドの血を引く正当な後継者であり、他のカリフなんて認められない。血統を重視すべきだ。」という人々がいました。彼らは「アリーの党派」と呼ばれる集団を作りました。この党派のことをシーアといい、のちに「シーア派」と呼ばれるようになりました。
それに対し、「スンニ派」の「スンニ」とは、慣習や伝統という意味です。血統に関係なく、慣習を守るならいいじゃないかというのがスンニ派の考え方で、スンニ派はイスラム教徒の約85%を占める多数派となっています。一方シーア派はイスラム教徒の約15%の少数派です。アリーの息子がササン朝ペルシアの王の娘と結婚したため、主にイランで支持されるようになりました。
スンニ派は「偶像崇拝はいけない」という『クルアーン(コーラン)』の教えを重視していますが、シーア派はこの点に厳密にはこだわりません。シーア派が多いイランで、指導者の肖像画がいたるところにあるのもそのためです。(とはいえ、神や預言者ムハンマドの偶像を描くことはしません。)
預言者ムハンマドの死後、イスラム勢力は拡大し、イラン人、トルコ人、ベルベル人など、多くのアラブ以外のイスラム教徒を生み出しました。同じイスラム教の国であっても、サウジアラビア(スンニ派のワッハーブ派)のようにイスラムの厳しい戒律を守っている国もあれば、イラン(シーア派)のように女性がジーンズを履くゆるやかなイスラム国家までさまざま。「スンニ派」と「シーア派」は仲が悪く、さらに同じ中東地域でも、「アラブ人」と「ペルシャ人」の対立もあり、さらに他国の思惑や利権争い、報復の連鎖が絡み、中東情勢をより一層ややこしくしています。
また、ニュースでよく聞かれる「イスラム原理主義」「イスラム過激派」といった言葉について。
テロが起きると必ず、「イスラム原理主義者がやったのではないか」などと言われます。実際に、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の犯人や、アフガニスタンのバーミヤンの仏像爆破など、過激な活動を展開したのはイスラム原理主義者でした。
しかし、もともと「イスラム原理主義」というのは、「本来のイスラムの教えにもとづいた生活をしよう」と訴えるものであり、決して暴力的なものではありません。貧しい人を助けるさまざまな活動も行なっていて、多くの庶民に支持されています。
問題は、このイスラム原理主義を掲げる一部の人たちの中に「 “武力を使ってでも” この理想を実現させよう」と考える人たちがいることです。中東情勢の低迷などによって、次第に一部の人の間で「復興主義」が変質し、「過激派」となっていってしまいました。
イスラム教は、本来は平和を求める宗教です。
今日ではイスラム教徒の数は世界で16億人以上。2100年にはキリスト教を抜き、世界宗教の最大勢力になると予測されています。
参考文献:池上彰が読む「イスラム」世界 / 角川マガジンズ
参考記事:グラフィック:スンニ派とシーア派ってどういうこと?|中東解体新書|NHK
イランの歴史
- 紀元前550年にアケメネス朝がおこり西アジア一帯を統一する大帝国となるが、アレクサンドロス大王によって滅びる。
- 224年にササン朝がおこると、ローマ帝国やビザンツ帝国とたびたび衝突する。ササン朝はイスラム教勢力との戦争ののち651年に滅び、この地域にイスラム教が広がっていく。
- 13世紀半ばからモンゴル帝国による支配を受けるが、1501年にサファヴィー朝が成立。サファヴィー朝は、ムハンマドの正当な後継者であるアリーの血統を宗教的・政治的指導者とする、少数派のイスラム教であるシーア派を国教とする。
- 1925年、パフレヴィー朝ペルシャ帝国が成立(1935年、イラン帝国に改名)。
- 第二次世界大戦後は1951年にモサデク首相による石油の国有化など、近代政策が進められる。
- 1953年、モサデクは親米派の軍部に倒されるが、1979年、イラン革命が起こり、ホメイニを最高指導者とするイラン・イスラム共和国が成立。
- 1980年、イラクとの戦争が始まるが、1988年に停戦。
- ホメイニの死後、1997年にハタミ大統領が就任すると、欧米や近隣諸国との改善がはかられるが、2005年から、核開発計画をめぐって欧米諸国との関係はふたたび悪くなる。近年、アメリカはヨーロッパ諸国の反対を振り切ってイランへの圧力を強めている。
イランの国データ
正式名称 | イラン・イスラム共和国 |
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英語表記 | Islamic Republic of Iran |
漢字表記 | 義蘭 |
首都 | テヘラン |
略号 | IRN |
面積 | 164万8195㎢(日本4.4倍) |
人口 | 8000万人 |
通貨 | リアル |
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言語 | ペルシャ語、トルコ語、クルド語など |
民族 | ペルシャ人、他にアゼリ系トルコ人、クルド人、アラブ人など |
宗教 | イスラム教(シーア派)、キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター系など |
独立年 | 1979年イラン・イスラム革命にて成立 |
国旗の比率 | 4:7 |
在留邦人数 | 678人 |