ギニアビサウ
国旗のデザインの由来
赤・黄・緑の汎アフリカ色の国旗。赤はポルトガルとの長い独立闘争で流された民族の血を、黄色は富や太陽を、緑は農業や希望をあらわし、黒い星はアフリカ人である国民の団結と統一をあらわしているとも、首都の位置を示しているともいわれています。
元々は、エチオピアの国旗の配色(汎アフリカ色)を最初に採用したガーナの国旗をモデルにして考案され、独立前に独立解放のために戦っていた「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ人党(PAIGC)」の党旗でもありました。
当時のギニアビサウは、隣国のカーボベルデと将来的な統合を目指していたため、両国の国旗のデザインも似たものを採用していましたが、その後2国間の関係が悪化し、1992年にカーボベルデは国旗のデザインを全面的に変更しました。
ギニアビサウ、ギニア、赤道ギニアなど、国名が似ている理由
ギニアビサウ🇬🇼やギニア🇬🇳、赤道ギニア🇬🇶がある地域は、昔「ギニア」と漠然と呼ばれていました。その後、それぞれの地域が細かく分かれながら独立しましたが、最初に独立したギニア(ギニア共和国)がシンプルにこの名前を名乗ったため、後にできた「赤道ギニア」「ギニアビサウ」はそれぞれ少しずつ名前を変えて独立しました。全てギニア湾に面した国です。
ギニアビサウの国名について
「ギニア」はヨーロッパがアフリカを植民地としていた時代に、西アフリカ一帯とその海岸(ギニア湾)を漠然と指す呼び名で、ベルベル人が読んだ「アグナウ(皮膚の黒い人)」に由来するともいわれている。「ビサウ」は、ポルトガルの航海王エンリケが中世ポルトガルの中北部にあった最高格の公領ビサウ(公領とは、公爵領・公国の別称で公の領地を指す)にちなんで名付けられた。
ギニアビサウの歴史
ギニアビサウはアフリカの西端部にあり、セネガルとギニアに挟まれた地域(旧ポルトガル領ギニア)と、沖合いのビサウ島、ビジャスコ諸島からなる国です。
15世紀にポルトガル人が来航して以来、奴隷貿易の中継地として栄えました。当時は長く繁栄した地域でしたが、独立後は、1977年以来の干ばつと社会主義政策の失敗で、大量の食糧輸入国に転落してしまいました。
- 15世紀、ポルトガル人が「発見」、以後ポルトガル人による植民が進められる
- 17〜18世紀、ヨーロッパ諸国による奴隷貿易の拠点として栄える
- 1879年にポルトガル領として確定するが、1936年まで住民の反乱が続く
- 第二次世界大戦後、独立を求める運動が高まり、1956年にギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)が結成され、1963年から武装闘争がはじまる
- 1973年に独立宣言をして翌年にポルトガルも独立を認めた
- 政府はカーボベルデとの統一をはかるが、1980年にこれに反対するクーデターが起こり、統一は断念する
- 1994年、複数政党制による初の大統領選挙を行う。しかし1999年、軍の反乱により大統領が追放されたり、その後もクーデターが起こるなど政情は不安定。経済も滞り、世界最貧国のひとつとされている
独立の英雄アミルカル・カブラル
アミルカル・ロペス・カブラルは、ギニアビサウ独立の英雄で、初代大統領のルイス・カブラルの実兄です。アフリカで唯一宗主国に勝利したギニア・カーボベルデ独立アフリカ党(PAIGC)を率いたことで知られていて、アフリカにおける植民地支配からの解放と革命の象徴となっています。
彼は独立直前に暗殺されましたが、現在でも切手(ドイツ発行)や空港名(カーボベルデのアミルカル・カブラル国際空港)などで名前を見ることができます。
ギニアビサウの国データ
正式名称 | ギニアビサウ共和国 |
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英語表記 | Republic of Guinea-Bissau |
漢字表記 | 幾内亜美須 |
首都 | ビザウ |
略号 | GNB |
面積 | 3万6125㎢(九州とほぼ同じ) |
人口 | 180万人 |
通貨 | CFAフラン |
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言語 | ポルトガル語、ギニアビサウ・クレオール語など |
民族 | バランタ族、フラ族、マンジャカ族、マンディンカ族、パペウ族など |
宗教 | 原始宗教、イスラム教、キリスト教 |
独立年 | 1973年にポルトガルから独立 |
国旗の比率 | 1:2 |
在留邦人数 | 2人 |