ガボン
国旗のデザインの由来
緑は密林、黄色は太陽と赤道、青は大西洋をあらわしています。
この国旗のデザインは、ガボンの都市ランバレネでの医療活動に生涯を捧げたドイツ出身の医師、
アルベルト・シュバイツァー博士の著書『水と原生林のはざまにて』からヒントを得たといわれています。
旧フランス領の国々の国旗では縦の三色旗を使う例が多い中、ガボンの国旗は横三色旗という意味で珍しい例となっています。
ガボンの国旗の歴史
かつてガボンは、1910年から1958年まで中部アフリカに存在したフランスの植民地「フランス領赤道アフリカ」(中部アフリカに位置するコンゴ、ガボン、中央アフリカ、チャドのフランス語圏4ヵ国)の一員でした。当時の旗は、今とは全く違う、このようなデザインでした。
左上のカントン部分にフランスのトリコロール(三色旗)、右には白い三日月と五角星が置かれた赤旗です。
1959年、4つの植民地はそれぞれ別個の国として独立し、ガボンはフランス共同体内の自治国に昇格しました。
自治国に昇格したガボンの国旗。カントンにフランス国旗、中央に黄色の横線を付けた、緑と青の横二色旗となりました。
そして翌年の1960年、ガボン共和国として独立し、現在の国旗が制定されました。
ガボンの国名について
ポルトガル語で「水夫用外套(水夫が着るコート)」を意味する「Gabao(ガバウン)」が由来。ゴウェ川の河口にある小高い丘の形が、水夫用外套のフードを広げた様子に似ているためという説が有力。
「密林の聖者」アルベルト・シュバイツァー
アルベルト・シュバイツァー博士は、神学者であり思想家、音楽家、医師として活躍した人物で、20世紀のヒューマニストとして知られています。
1875年、当時ドイツの領土だったアルザスで生まれ、比較的裕福な家庭で幸せな日々を過ごしてきたシュバイツァーは、その恩恵を他の人たちに分かち与えるべきではないかと考えるようになりました。
当時はまだ学生だったため、「今は勉学に励み、キリストが布教活動を始めたといわれる30歳になったら人に奉仕する活動を行おう」と決心します。
そして献身の決意を実現するため、神学と合わせて医学を勉強し、自らの著作の印税や演奏会活動での収入を資金として、1913年、医療施設に困っていたアフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネに赴き医療事業を開始。診療所には、内科・外科的治療を求める人たちが行列を作りました。
しかし、第一次世界大戦が勃発し、医療活動は中断。フランス領ガボンにいたシュバイツァー博士はドイツ国籍だったため捕虜となります。ある日、宣教師からの依頼で、軍の許可を得て往診に向かう途中、自然の中で悠々と生活する動物を見て、博士の頭の中に、「生命への畏敬(生命をもつあらゆる存在を敬い、大切にすること)」という言葉が閃きました。博士はこの概念を胸に抱き、後に世界平和にも貢献することになります。
1918年、荒廃した故郷へと戻った博士はヨーロッパ各地で公演を行うようになり、一躍有名人に。そして再びランバネラでの医療活動に戻り、1952年には、アフリカでの献身的な医療奉仕活動の功績によってノーベル平和賞を受賞しました。
「密林の聖者」と呼ばれ、アフリカの医療に貢献したシュバイツァー博士。その生涯は、日本では児童向けの偉人伝でも親しまれています。
ガボンの歴史
- 15世紀末にポルトガル人が渡来する前は、バントゥー系の先住民が住んでいた。
- ポルトガル人は沿岸に交易の基地を築き、奴隷貿易を開始。その後、オランダやイギリスも奴隷貿易に参加。
- 19世紀に入り奴隷貿易が禁止されると、フランスが内陸部まで進出し、首長たちと保護条約を結んで、1870年代にはほぼ全域を支配下におさめた。
- 1910年、チャドやコンゴなどとともに、フランス領赤道アフリカの一州となる。
- 第二次世界大戦後の1958年、フランス共同体内の自治共和国となり、1960年に独立。ガボン民主ブロック(BDG)のムバが初代大統領に就任した。
- 石油やウランの開発が進んで政情は安定し、1968年、BDGを継ぐガボン民主党(PDG)の一党独裁体制が固まった。
ガボンの国データ
正式名称 | ガボン共和国 |
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英語表記 | Gabonese Republic |
漢字表記 | 加蓬 |
首都 | リーブルビル |
略号 | GAB |
面積 | 26万7667㎢(日本の約3分の1) |
人口 | 212万人 |
通貨 | CFAフラン |
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言語 | フランス語 |
民族 | ファン族、プヌ族、ミエネ族、テケ族、コタ族 |
宗教 | キリスト教、伝統宗教、イスラム教 |
独立年 | 1960年にフランスから独立 |
国旗の比率 | 3:4 |
在留邦人数 | 73人 |